もし性欲と愛情を切り離してみたらどうなるのか
どうして「恋愛」と「性行為」はセットで捉えられるのだろうか。
全く別のものとして見ると世界はどう変わって見えるのか。
今日は、そのことについて過去の体験を踏まえてお話ししていきたい。
過去の体験談より
・恋人なら性行為をして当然でしょ
・好きなら触りたいと思うでしょ
・性行為がないなら別れるしかない
私が実際に言われてきた言葉です。
何一つ納得出来なかった。
自分がその人を大切に思う気持ちが「性行為」を通さないと相手に伝わらないことがショックだった。
逆を言えば「性行為」をすれば、相手に好意が伝わることにも、何故か堪らなく悲しくなった。
こんなことで、と思ってしまう自分がいた。
他者に性的欲求を抱かない私には、性行為の重大性を理解することが出来なかった。
いくら言葉や態度で伝えても、一緒にいてどれだけ笑い合えても、性行為がないなら友達と一緒なんだと言われる。
それならば友達でいいやって思った。
でも、友達に戻ると今までの距離感には戻れなくて何だか関係もギクシャクするし、暫くすると相手に新しい恋人が出来て会うこともなくなる。
そんな繰り返しだった。
何度も繰り返して、大切な人の背中を見送るうちに、自分がおかしいだって、自分のせいで相手が離れていくんだって考えるようになった。
大切だと思える人が出来ても自分が性行為に応えない限り相手を傷付けるし、自分も傷つくことになる。
自分が性行為さえ耐えることが出来れば、傷つき合うこともないんだ。
それからは、なるべく受け入れるようにした。
すると今まで上手くいかなかったのが嘘のように関係が長続きするようになった。
それどころか相手もより優しくなった気がする。
こんなに変わるのならば、恋愛において必要なことなのかもしれないって思った。
それと同時に恋愛が嫌いになった。
一緒にいて居心地の良いと思っていた人のはずなのに、一緒にいることが怖くなっていった。
性行為になる流れを常に警戒して過ごす時間は何も楽しくなかった。
今日はするのか…
何時間耐えれば…
結婚したらこれがずっと続くのか…
何年も、何年も、私は我慢して、自分を消費し続けるのか。
―そんなの、今もその先も私は幸せじゃないな。
そんな風に思ってしまう気持ちは、きっと世間でいう「恋愛感情」じゃないんだろう。
そうしてアロマンティック・アセクシュアルを自認していったと今思えば分かる。
誤解しない欲しいのは性行為自体を否定するつもりはない。
繁殖するために備わった人間の本能であるからに大切なものだと思う。
ただ性行為と愛情表現を一緒にしてほしくないだけなのだ。
「性行為」は「性欲」であって、「愛情表現」は「愛情」だ。
別物なんだよ。
好きだから性行為したい、はずるい。
私にとっては「好き」を人質に取れてるようなもの。
しなければ私の好きは証明されないんだって脅されるようなものだ。
好きだから性行為がしたい、というならば。
好きなら性行為をしないで、ということも許されるのだろうか。
本当に私のことが好きなら、私が嫌がることをしないで「好き」を証明して、と言ってもいいのだろうか。
…そんなのどっちも不毛だと思う。
全く同義が異なるもので推し量ったところで本当の真理には辿り着けない。
しかし世の中の一般常識では、恋人は性行為をするものだ。
それが当たり前だって自然に思うくらい浸透している。
でも、もし性欲と愛情は異なるものだという考えが定着して性行為をしなくても「愛されてない」にならないのなら。
「愛されてるけど、性欲が満たされない」に認識が変わるのなら。
一緒にいれる未来を共に探し出せるかもしれません。
性欲を満たす方法だけを考えればいいのなら、お互いに同じ意義に対して向き合えるし、愛情については疑わなくて済むのだから。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
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コメント
そもそも人に関心がないのか、アセクシュアルなのか悩んでいます。
恋愛や性欲は勿論ないのですが、加えて私には両親兄弟への愛情と友だちへの愛情も区別がつきません。人によって愛情の大きさは違うのですが、愛情の種類としては一緒のような感じがします。
感情が充分に発達しなかっただけなのかもと、最近は思うようになりました。
kuroさんはどうなのか、うかがえたら嬉しいです。
れいさん
コメントありがとうございます。
私も明確に「家族愛」「友愛」「恋愛」など差がある愛情はないです。
ただ名前を付けるのであれば相手が家族なら「家族愛」、友人なら「友愛」と呼んだ方が一般的に伝わるんだろうな、と思い表現として使う場合はあります。
その方が誰かに説明する際に伝わりやすいからです。
自分の中では「愛情」は「愛情」で種類分けされていないですし、人によって大きさの違いはあれど突出した愛情も存在せずにいます。
誰かを特別に愛することのない自分は、れいさんと同じように感情が発達しなかったんだと考えていました。
自分に欠陥があるんだと思うことで自分を責めるようになり、自己肯定感も下がる負のループでした。
今は、アセクシュアルというセクシャルを知って、自認したことによりそういう人間が存在してもいいことを知りました。
私の場合はアセクシュアルなんだと自認することで楽になったので、アセクシュアルを自認する際には悩みませんでした。
むしろ、あ!これだ!と居場所を発見したような嬉しさすらありました。
れいさんがもしアセクシュアルだと自認することで、楽になれる部分があるのであればアセクシュアルと自認してもいいのかもしれませんね。